映画「主戦場」見ました -慰安婦問題論争と書いてバトルグラウンドと読む-

初めてブログ書きます。初めてでこのテーマって…と思うものの、頭の中を言葉にしておきたい欲が勝った。書きますね。

(人生設計ではブログを始める際には芸術寄りのエッセイみたいなものを書いてアーティスティック路線で生きていくつもりだった。) 

 

f:id:Nding:20190421234851j:plain

日系アメリカ人YouTuberであるミキ・デザキ氏が監督を務める映画「主戦場」。

右だ左だ、両論併記だいや違う、と情報は少ないなりに公開前から色々と気になる感じではあった。

いざ劇場。公開から2日目、客層は会場であるミニシアター系の常連客風の人もいればはたち前後くらいの子もいて、予想よりバラエティに富んでる感じ。

 

でとりあえず私が感じたのは次のような。まとまりはしないので何というか乱暴なメモです。直観頼みで考えが足りないことに定評があるのがわたくしですのでご承知おきください。

 

  • 「あったかなかったか」じゃなかった

慰安婦問題、大きな次元で「あったかなかったか」の論点でやっているのかと漠然と思っていたけど、そうではなかったのか。

いや、右寄りとされる人たちは、そもそも存在しないと主張しているんだと思っていたがどうやら違う。もしくは、ないとは言えないと承知はしている感じ。
「国が主導したかどうか」に重点を置いていた。あと当時の法に照らして違法であったかどうか。そうか、国として謝罪がいるかどうかの話として扱うなら確かにそうか。
 
あるのはあった。ただ国が募ったわけじゃない、業者だ、という主張。
あとは、慰安婦たちの待遇はよかった、お金をもらえていい暮らしをしていた、というような。縄も鎖もないのに「奴隷」ではないじゃないかと。
 
「国じゃない業者だ」については、それはそうだとしてこの問題をあんな風に扱っていいことにはならないと思うのだけどどうでしょう。国としての謝罪という点ではそここそが厳密に、慎重であるべきなんでしょうけれどさあ…でも誰のためのシステムだったの、”恩恵”にあずかったのは誰なのと考えたら入口の話ではないと率直に感じるけれども。
 
  • 国と国の争いのお話でもなかった
根は、国と国との問題ではなかった。韓国の人のとらえ方としても。(韓国の人にも様々な立場があるのは承知している)
慰安婦支援を行っている側の女性が、デモなどに「太極旗を掲げようとしたら断る。シンボルの、黄色の蝶の旗を掲げるよう言う」という趣旨のことを話していたのが印象的だった。ああそうか、そうじゃん、と思った。
慰安婦問題に関心を示すことすなわち日本という国を批判しているわけではない。韓国のオーディション番組で、AKBも出演していた番組の中で慰安婦バッジを付けていた韓国人アイドル(練習生)を「反日」「愛国」と断定して残念がる人たちを見たけど、文脈を整理しないともったいない。彼女の意図するところを聞いたわけではないんだから。
まずそこにあるのは、女性の人権が失われていたことに寄り添う普遍的なものだ。
 
  • 戦時下での人権の普遍的な話だった
「戦時下においては、人権が損なわれるようなことが起きる」というシンプルな問題であると思った。
慰安婦の女性の人権はもとより、”利用”した兵士たちも、戦時下じゃなければそんなことをする人間でありたいと思ったことはないだろう。
家族がある人もいただろうし。ていうか欲望の次元プリミティブすぎでは、と思うもん。本来の生活があったら、もっとやりたいこともあっただろうし、将来を見据えた、社会的な欲望がきっとあっただろう。
その点では、戦時下という異常な環境で、彼らの人権も脅かされていたとも言えるのではないかと思った。徴兵がそもそもというところでもあるけど。
ただ”使う使わない”はそれこそ彼らの自由意志なので別の次元の話ではある。女性の、被害者の側からしたら一緒にくくられたら血が沸騰するわ。
 
  • さいごに
「両論併記」は「中立」ではない。「いや悪意www」と思ったこともしばしばあった。(会場内も何度かドッと沸いた)
それでも、どちらの主張もテーマごとに聞ける、時間を割いて聞かざるを得ない環境に置かれるのはなかなかない機会で、雑な言い方だけど純粋な楽しさがあった。
ただ脱力感というのか、無力感、言葉が通じない絶望感みたいなものも同時に痛感した。純粋な恐れを感じてしまった。
言葉を異にする、文化やバックグラウンドを共有していない人間と触れ合う時の恐怖ってこれかなと思ったもん。ものすごい乱暴な言い方するけど移民とか外国の人を迫害するのに通じる感情かもしれない。いや違うか。雑が過ぎるか。
 
とにかく、「面白い体験」というのか、そういう感覚で見に行く人が増えたらいいなと思った。始まったばかりです。